明日にたどりつくために〜脳幹梗塞は凶後大吉?〜 本文へジャンプ
闘病経緯とその他戯れ言
過去の経緯を簡単に。冊子「釣りとギターと脳梗塞」の内容と一部被りますが。

それは過去3年間の健康診断で危険因子なし、煙草やらず、酒も少量の僕に突然のようにやってきました。

2007年3月23日  脳幹梗塞発症の兆し。
2007年3月30日  発病(運命の日、第二の誕生日?)。死の恐怖と初めての救急車。
2007年4月20日  急性期病院からリハビリ病院への転身。
2007年5月23日  検査入院のため一時別の大病院へ入院。
2007年6月4日   大病院を退院。リハビリ病院に戻る。
2007年7月27日  リハビリ病院を退院。その後の約1ヶ月、自宅療養。

ここまでの詳細なストーリーの内容は旧ホームページを封印し、冊子「釣りとギターと脳梗塞」におさめられております。

2007年9月1日   約5ヶ月振りに職場復帰。ただし暫くは時差出勤。
2007年11月16日 定時出勤となる。


当時の職種は大阪工業大学卒業以来20年以上に渡り地域開発・土木設計の技術職に従事。
取得資格は、測量士、技術士補試験合格、被災宅地危険度判定士(休業中)、宅造設計資格者。

2008年1月     初詣の御神籤で珍しい「凶後大吉」というものを引き当てる。
             まるで天気予報か?
             年賀状のお年玉くじで僕の出した友人への一枚が1等に。
             しかも当たった彼は入院の僕を最も見舞ってくれた友人のひとりでした。


さて、2007年の出来事は衝撃に値するものであったが、ここまでが夢の世界とすれば、ここからが現実の世界といえましょう。

2008年の春頃まで、時々お世話になったリハビリ病院へお礼の挨拶に通ったりしていました。
恥ずかしながら自作の絵やCDをもって。

仕事は前のようにはいかなかったけど、自分の培ってきた固有の技術力に頼って、失ったところを補うようにやりくりしたように思います。しかし余計な責任感もどきの断れなく無理を強いられる性格ながらも、後遺症で考え方も変わらざるを得ず、最後は会社には都合のよくない人材になってしまいました。

2009年。定期的にMRA検査している脳血管の状態も小康状態で大丈夫で、ホッとするのも束の間、不況で社員が入社時の三分の一まで減った小企業では事業ごと縮小なるという理由に託けて、僕はリストラに遭いました。減っていく社員、今の自分を考えても「明日は我が身」とは思いましたが、管理職の立場からの転落は情けないものでした。今ではその会社はもっと業績が悪化したようで、給料が遅れたり、退職金が滞ったりしたようなので、早めに抜けられて、まだマシだったのか?とにかく体調の悪さを抱えてハロープロジェクトならぬハローワーク(えらい違い)通いが始まります。

2008年に引いた初詣の御神籤「凶後大吉」
仕方のないことですが、家族は「退院=完治」ととらえます。でも患者はそんな意識はありません。後遺症の残る病弱者です。ただリハビリ病院での劇的な回復の期待できる期間が過ぎて退院したに過ぎません。
「死ぬかも」から「奇跡」のトンネルを抜けても「厳しい現実」でした。

再就職戦線に20連敗するも、親切な方にお世話になり同業の建設コンサルタントに再就職が決まります。ただこのときは身障者手帳の取得もしていない普通枠としてのものでしたので、現場への外出や長時間の残業にフラフラになりながら勤めたもので、結局1年持たず退職。人間関係に不満があった訳ではなく残念でした。お世話になった方々には感謝しています。

脳幹梗塞にはワレンベルグ症候群・ホルネル症候群が伴い、僕の場合、神経障害として平衡機能障害・眼振・ふらつき・倦怠感・嚥下障害・構音(声帯)障害・温痛覚障害・軽い痺れ等あり、やはり仕事の仕方に制限を加わえるに値する身体だったのです。でも入院当初のすさまじい状況を思えば社会復帰など本当に奇跡でした。なにせ最初2ヶ月は「車椅子」「チューブ栄養」でしたから。

それから、障害の程度を客観的に診て測るため、各科障害検査巡りの旅へ。
経験しないと誰も教えてくれないもので、原因は分かっていても、様々な障害はその症状のある科でしか診断書が書けません(それぞれの障害の指定医というの?)。「精神面異常なし」は以前判明済。平衡障害は三半規管に関係するので、これは耳鼻科です。でもこの症状が耳鼻科の治療で治る訳でも何でもないのです。不思議なカラクリです。脳性の平衡障害は、内耳からくるメニエール病などと違い、脳神経の伝達不良によるものです。もちろん眼振も眼科で簡単に解決できる問題ではありません。眼は左右の明るさ、大きさ・角度が異なり焦点が合し辛く、頑張っても疲れる、肩が凝る、倦怠感がつのる、長時間労働できないのです。結局、平衡機能障害による身体障害者に認定されました。
このときを境に、正式に書面上での「身障者」としての人生を歩んでいくことになるのでした。


また障害年金は、障害者手帳とは概念も機関も異なるもので、注意が必要です。
障害年金の申請は社会保険事務所になるのですが、「初診の状態」「発症1年半後の状態」「現在の状態」の診断書が要りますし、初診時に加入していた保険と、上記の時期の症状如何でコースが分かれて難しいものです。自分で勉強しないと「1年半」のことなど誰も教えてくれませんでした。
あえて教えない方向にしているようにしているように思えてなりません。また障害年金の申請は、不正受給が近年増えたためか大変期間が掛かるようになっています。

僕よりも障害が重い人、例えば「働けるか否か」が身障者2級認定の別れ目と大まかに考えられますが、
「働ける」というのと「仕事がある」のとは意味が違います。自分に適した就職が見つからなくても2級取得
になる訳でもないし、働いていても2級を取得している人もいます。理不尽に思います。


僕は技術屋の世界を離れ、事務職への道を模索していました。身障者手帳が効く「身障者枠」で。健常者でのこれまでの無理は長続きしないと判断しました。身障者を認めることには抵抗がない、といえば嘘になりますが仕方のない状況でした。

さて、こういう職探しの中でも理不尽に思うことが多々あります。
相談窓口では、「障害者はイジメられますよ」・・・・・覚悟の上ですわ。
          「中途障害は一番職が無いんですよ」・・・・・結構な割合で中途障害じゃないのか。
          「転職の志望動機は?」・・・・・出来そうなものを雰囲気で拾っているだけ。
          「この仕事は実務経験不足です」・・・・・当たり前。障害持ったから畑変えたんだから。
ごく短期間ですが、随分過去に設計の個人事務所を立ち上げた経験がありましたが、この体調では、営業回りのテンションがなく、それも今さら出来ませんでした。
事務所設立2日後に100万円の仕事を取ってきた、あの勢いはとてもありません。


かくして何社かの応募ののち大手不動産会社へと再転職することができました。不動産関係に縛ることで、事務職でも今までのスキルが活かせる何かがあるとの考えでした。他業種の事務では僕は恐らくダメでしょう。そればかり従事してきた誰かれを簡単に上回れるはずもないですから。

決まったからといって全て安泰とは言えないのが僕のような境遇の者。実際の仕事は本当にこなせるか?人間関係で落ち込むことはないか?など始めてみないと分からない世界なのです。正直健常な方々との意識のズレ(多分。自分自身も体験なくしては同様でしょうが)は、時折感じることはありますが、仕事も事務ながら、やや技術面を含んだ仕事を与えて頂いているし、あとはちょっと自主残業(あえて残業申告はしません。残業をカウントしない理由は別の機会に。)での体力との勝負という感じです。体調的にはとても健康とは言えず、いつも徹夜明けのような倦怠感を抱えているので、いつ気力が衰えても不思議はないのです。
ちなみに入社のときの健康状態の選択記入欄には「普通」としておきました。「身障者枠で入っておいて健康っていうのもおこがましいので普通でいいですか?」と言いまして。


「世間は狭い」とはよく言われますが、新しい職場でもそれはありました。
以前自分が地域開発造成設計したマンションが管理物件になっていたり。
「どっかで見た図面やなあ、あっ!」ていう感じ。
また開発造成した保育園の正面の家が同僚(年の凄く離れた同期)の実家だったり。
「ええっ?あの家だったの?」ていう感じ。

さて悩みながらも新しい職場環境で5年を過ごして、6年目の契約も終えて何とか働けていることを、まわりの方々には感謝しております。どこまでいけるか分かりませんが、皆様のお蔭です。

無茶が祟ったとかストレスとか病気になった理由も大事ではあるが、病気になった意味を考える方が大事という考え方に変わったことは人生の中で大きい。
個人差があり患者の数だけ症状が異なり、医師や家族にも完全に把握できるはずもない世界とも言われます。違う病気ですが、以前先輩から「医師より、あなたの痛い!は、こちらにとって意味はない。」と言われたそうです。病気。障害は測ることのできるものが基準となっていて、「痛い!(病気によるけど)・しんどい!」は、なかなか測れない、共有できない、見えないものだからです。僕にしても現在の時期としては、少しずつの緩和にと一縷の望みが交錯するものの、治療という時期は超えて、後遺症と共存する形で生きています。

人生観は変わりました。もしも人生・魂は輪廻して成長していくものとして、何らかのカルマを与えられて生きているのだとすれば、人生80年ぐらいとしたなら、僕は半分半分で健常者と身障者を生きることになり、ある意味得をした(徳も得た)充実した人生を送れる、と負け惜しみでなく言えそうですが、確たる宗教心のない僕には、そこまで開き直れる状況でもありません。やはり一日一日先々は心配です。
また何かの新宗教に嵌っていく頼っていく考えも全くございません。
ただ経験なしでは分からなかったことが、そして人の本音や自然のささやきなど、感じられなかったものをキャッチしているように思います。そして僕のような経験もないのに、そこに気付かれているひとに出会うと尊敬します。

@元々見かけは温厚タイプですが、病気前は結構人に対して挑戦的な態度も取ったものです。中間管理職だったので、上司にも、後輩にも、自分にも厳しくプレーシャーを掛けていました。会社は戦場、後輩には厳しくする変わりに、責任は全て自分に、という考えで、上層部との会議でもとことん詰め寄って議論したタイプでした。今は見る影もありませんが、それでいいのだと思えます。心身ともに疲れて当たり前。「正直者がバカをみる」世界はいまも納得はしていませんが・・・。
A関西人特有の、「横断歩道で黄色になると走ってでも突っ込んでいく」習慣は落ち着きました。咄嗟の行動に不安のある身体だし、とにかく「今まで何をそんなに慌てていたのかな」という心境にもなりました。「待つ」という行為にもあまり抵抗がなく心に余裕を持てるようになりました。
B身をもっって身体の不自由な方の気持ちを共有することができました。頭では解っているつもりでしたが、実は全然解ってなかった根底にある障害者の痛み。それでも少しの灯りを求めて「明日にたどりつくために」生きている人はやはり素晴らしい。挫けそうな僕にお手本を示してくれる人たちがいます。
C年を取ることが嫌ではなくなりました。調子が上がらない分、一日の流れが遅くなりました。思えば以前はずっと焦っていたように思います。1年経つのも早く、またひとつ年齢を重ねるということが嫌だったのですが、気にならなくなりました。そこには言い尽くせない想いを含んでいるのですが。

今までの得意分野を離れた職で、2011年の冬は、新しい資格に挑戦しました。約3ヶ月の我流の勉強法では足らず、また8%ほどしか通らない合格率。あと3点というところで散りました。短期集中、いつも我流の方法はここでは通用しませんでしたが、初めての職でのことを考えれば善戦した方か?経験不足のため、弁護士でも見解の分かれる難問の3問をクリアしておきながら、普通に取れるとされる4問を落とすという失態も演じてしまいました。詰めの甘さは自分らしいです。仕事だけでフラフラなので、それ以上の勉強というのは苦痛です。2017年現在のところ以前覚えた知識よりも劣ってしまっているでしょう。言い訳ではないのですが元来は資格よりも実務派です。「資格」は自分のためのもの、「実務」は会社のためのもの。
・資格をもっているのに、オゴリばかりが目立ち実務の応用力には活かせていない人
・資格はなくても、実務に真摯に取り組み信用・成果を積み上げていく人
 を沢山みてきました。
現在与えられている仕事ですが、している事は今の自分には合っていると思います。しかし出来ないはずの残業をせざるを得ない状態です。ドクターストップであろうと入社当初の話と少々食い違おうと。健常者な僕なら(他人との比較でなく)、その場でのスピードはもっと早くこなせる仕事でしょうが、プライドも失った身障者であればこそ継続できる仕事とも言えるかも知れません。この深い意味がお分かりでしょうか?
2015年現在は自らの工夫で時間内の処理法のコツを掴み厳しい状況からは脱出しましたが、環境に
左右されますので、そこは楽観視できませんが。

現在、残念ながら希望に満ちては生きていないです。それでもそうこうするうち何かが変わっていくのでしょうか?再び希望の見える明日にはたどりつくか、滅びゆくのか今は判りません。でもとりあえず今日まで生きております。死にかけてから丸12年が過ぎました。もう予行演習したから怖さのない境地にはありますが。

まだとても自分の描く「明日」にたどりついてはおりません。 H31.4.13

   
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